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| 応仁寺 | 如光堂 左に如光さんの石像 | 油渕遊園地(花しょうぶ園) |
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| 油渕遊園地(花しょうぶ園) | 花菖蒲 | 油ケ渕(向こうに見えるのは市民病院) |
応仁寺
碧南市の油ヶ淵仁面した高台にあり蓮如上人が建立したとされるお寺。蓮如は応仁2年(1468年)、比叡山僧兵の迫害を避けて西端に滞在。加賀、越前の門徒の協力を得て寺を建立。年号から応仁寺とした。蓮如が去ったあとは、僧侶が居ない村持ちの寺院として受け継がれてきた。
民話:蓮如と油ヶ淵の大蛇
昔、蓮如という徳の高いお坊さんが、京都から逃れ、現在の碧南市西端の応仁寺に身を潜めた。うわさを聞いた人が大勢、蓮如さんのもとへやってきた。尊い話を聞きたいという人は日毎に増え、お堂は人でいっぱいになった。
ある時、雪の様に白い顔をした美しい娘が来て、目立たぬようにお堂の後ろに座ってじっと耳を傾けた。しかし、蓮如の話が終わる頃には、煙のように消えていた。「あの娘は、どこの娘だね」「知らんだよ」「どこの誰ともわからんよそ者は、気味が悪い」「ひょっとして、化けもんじゃ」
その日もお堂は大勢の人でいっぱいだった。そこへ娘が現れた。娘が後ろに座ったと気が着いた人があわてて立ち上がり、娘の後ろを通ったとき、その人は驚きの声を上げた。娘の細いうなじに、きらきら光るうろこが3枚生えていた。娘ははっと立ち上がると、小走りにお堂から出ていった。
その夜は、ひどい嵐になった。ろうそく1本を頼りにお経を唱える蓮如の所へ「ごめん下さい」と女の細い声。蓮如が開けると、美しい娘がずぶぬれで立っていた。蓮如は娘を招き入れ、「私たちは仏様の前にみな平等なのです」と諭すと、娘はゆっくり顔を上げた。「阿弥陀様は、生きとし生けるものすべてが救われるよう願っておられます」。蓮如の言葉に、娘は堅い口を初めて開いた。「たとえ・・・蛇であっても?」。「むろん」の答えに、娘が瞼を閉じると一滴の涙が落ちた。娘は深々とお辞儀をすると闇の中へ消えていった。
以後誰もこの娘の姿を見たものはなかった。
如光堂
昔、まだ油ヶ淵が海だった頃のこと。村人が朝、ふと水面に目をやると、光の輪に包まれた大きな浮き藻の上に、一人の童子が座っていた。この男の子は「油ヶ淵の化身に違いない」と、地元の庄屋に大切に育てられた。
頭が良く、力も強かったことから、佐々木(今の岡崎市上佐々木町)の上宮寺住職の目にとまり、弟子入り。その後、京に上って蓮如上人の弟子となり、「如」の一字をもらって「佐々木如光」と名付けられた。
当時は「応仁の乱」で知られる混乱の時代。蓮如は、宗教上の対立から比叡山の僧兵に命をねらわれていた。如光は蓮如を守って京から近江へ、さらに故郷の西端へと逃れた。
蓮如はこの地に三年間とどまって、西三河一帯での布教につとめ、京へと戻っていった。如光は蓮如と行動をともにしたが、しばらくして上宮寺に戻ったという。
それを聞いた西端の人たちは、上宮寺に出向き「故郷に戻ってきてください」と頼み込んだ。如光は「みなさんがそれほど言われるなら参りましょう」と、支度のため奧へと入っていった。しかしいつまでたっても出てこず、不審に思って見に行くと、部屋には「我、生地に帰す」との紙片だけが残されていたという。
蓮如が西端で滞在した庵(いおり)のあとには「いつ帰ってきていただいてもいいように」と1638年(寛永15年)に寺を建て、応仁寺と名付けて代々地域の代表が世話を続けてきた。1928年には、地元住民らの浄財で、如光をまつる「如光堂」も建てられた。
「蓮如上人をこの地にお連れすることができたのは、如光さんのおかげ。今でも西端では、蓮如さんを慕うのと同じぐらい、如光さんも愛されています」。如光堂は、応仁寺ととともに1945年、三河大地震で倒壊したが、地元の熱意で1957年には応仁寺、1974年には如光堂が相次いで再建された。傍らには、如光さんの幼少時代の石像もあり、今も地元の人たちが花を立て、手を合わせている。
1999年5月23日中日新聞・西三河版より
油ヶ淵
県内最大の天然湖で碧南市と安城市などとの境にある。
油ヶ淵は周囲7.86q、面積約64fの、真水と海水が混じり合う気水湖。
かつては「北浦」と呼ばれる海の入り江だった。1605(慶長10)年の矢作新川の開削で土砂が流れ込み、徐々に海との境がふさがれて1644年の築堤でほぼ完全に締め切られた。その後、周囲の埋め立てが進み現在の形となったが、県は天然湖と位置づけている。
湖になった頃は、まだ決まった名はなかった。地域によって「北浦池」、あるいは故事や開発の歴史から「蓮如池」「伏見屋池」などとよばれたが、1766年頃「油ヶ淵」が定着したという。
その由来が碧南市西端地区に残る「竜灯伝説」だ。
淵がまだ海だった頃、西端に貧しい母子が暮らしていた。息子は母親に楽をさせようと漁師になった。母親は、息子が無事に帰るよう、岬に灯りをともそうとしたが、高価な油は買えず、ただ神仏に息子の安全を祈るばかりだった。
いつの頃からか、息子が漁に出る日に限って岬に灯りがともるようになった。同時に、見慣れぬ若い娘が近くの油屋で油を買っていくようにもなった。娘の正体を突き止めようと村の若者が後を付けると、娘は岬の端で急に姿を消した。と同時に、岬に灯りがともったという。
驚いて帰った若者の話から、油を買いに来たのは油ヶ淵の主の竜神で、母親の祈りを聞き届けて娘に姿を変え油を買い続けたに違いない、とうわさになった。
やがて岬は「油ヶ崎」と呼ばれるようになり、この名が転じて、油ヶ淵となったという。
名前に注目して「掘れば石油が出るかも」と調べた記録も残っている。
1958年頃、大手石油会社が西尾市を基地に、湖周辺を探査。ダイナマイトを使って振動を起こし、その反応で地下の様子を探ったが、結果は「見込みなし」。結局、採掘は行われなかったそうだ。
油は出なかったが、代わりに油や排水などはどんどん流れ込んだ。安城や碧南、高浜、西尾の各市から。
流れ出す水は少なく、湖内で水がとどまりやすいことから湖は汚れた。環境庁の1984年の調査では、全国の湖の中で「汚染度ワースト2」という、ありがたくない肩書きも付いてしまった。
県は1991年3月に油ヶ淵周辺の4市を県内初の「生活排水対策重点地域」に指定し、流域の住宅全戸の流し台にストレーナー(網かご)を配布。工場排水の規制強化や、ヘドロのしゅんせつ、浄化施設の整備などを進めている。
その結果、1997年の調査ではワースト5位と、やや好転。少しずつだが、着実に浄化に向かっている。
1999年9月2日中日新聞・三河版より